戦士のズル休み 2nd season | 2012年05月13日
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2012.05.13

原城跡にて天草四郎を想う

 

先程実家から帰ってきました。

実家はネット環境がないので、

パソコンを入れるとたくさんのアクセスに思わず

「ワンダホー」

と叫んでしまいました。(やや誇張気味)

いつもアクセスや拍手、

ランキングにポチしていただき、ありがとうございます。

 

 

さて、今日は昼から実家から比較的近い、

日本史上最大規模の一揆である「島原の乱」の舞台である、

原城跡へ行ってきました。

 

CIMG3371

道中ひたすら車幅が狭いので、

対向車が来ないかとハラハラドキドキ。

国道から田園地帯に入り、農道をひたすら進むと、

高台にひっそりと佇んでいます。

現在は石垣の一部しか残っていませんが、

ここが「原城跡」です。

 

駐車場には野菜の販売所が。

無人販売所かと思ったら、

中学生ぐらいの男の子がPSPをプレイしながら店番してました。

 

 

CIMG3372

石垣は乱後の幕府軍の事後処理により徹底的に破壊され、

現在はごく一部しか残っていません。

石垣の上まで上ってみましょう。

 

 

CIMG3383

意外と観光客が多くてビックリ。

ここが原城本丸の跡地になります。

あちこちに無造作に石碑や墓碑が置かれています。

写真左の木の下にあるのが一揆軍の総大将、

天草四郎の墓碑です。

 

 

CIMG3373

天草四郎時貞の墓碑

天草四郎は原城本丸で自害、長崎でさらし首にされました。

この墓碑は四郎の母が作ったものといわれており、

別の場所で見つかったのをこの場所に移動したもので、

ここに天草四郎の遺体があるというわけではありません。

 

 

CIMG3374

天草四郎像

若干15歳で一揆軍の総大将となった天草四郎は、

絶世の美少年であったといわれています。

37000人もの一揆軍を統率するぐらいですから、

やはり何か普通の人にはない、特別なカリスマ性があったのでしょう。

 

 

CIMG3382

佐分利九之丞の碑

(以下傍らにあった説明書きより)

佐分利九之丞は因幡藩(鳥取県)池田候の家臣で、

島原の乱の時慰問使として差遣された人物です。

寛永15年(1638)2月27日、幕府軍の総攻撃にあたり、

九之丞は細川軍の先陣を承って進撃しましたが、

原城本丸に於いて一揆軍の苛烈な反撃に遭い致命傷を受けます。

彼は最後の力を振り絞り、

この石に刀で自分の名前と年月を掘り込んだと伝えられています。

それがそのまま九之丞の墓碑となっています。

 

 

CIMG3390

ホネカミ地蔵

(これも説明書きを要約)

島原の乱終結から128年後の明和3年(1766年)7月15日、

有馬村願心寺の注誉上人が、

この戦乱で倒れた人々の骨を敵味方の区別なく拾い、

霊を慰めた地蔵尊塔です。

「ホネカミ」とは「骨を噛みしめる」という意味だそうです。

 

 

CIMG3388

天草四郎の墓碑に手を合わせる某ブログ管理人。

「すいません、今日は手ぶらで来てしまいました。

今度来るときは特保のコーラを持ってきますから。

どうかゆっくりとお休みください」


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